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Vol.29  THE ANDY WILLIAMS BIOGRAPH
DVD・ムーンリバーと私(2006年1月25日・国内初のDVD発売の紹介



■ムーンリバーと私(DVD)にリンクします


■動画です。更新ボタンクリックで動きます・・。



■DVD「ムーンリバーと私」からアンディの和訳を78年間の軌跡まとめて掲載しました。アンディの両親、兄弟、クローディヌ、アンディの子供たち、現在の妻、プロディーサー、俳優、その他アンディゆかりの人たちが登場します。アンディの今まで記事でしか知らなかった事、衝撃の事実(クローディーヌの過失事件)など全て詳細にアンディは語ってくれます。

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   ■このページを画像で紹介のページへ
    Vol.33 Vol.34 Vol.35でも紹介。
■THE ANDY WILLIAMS BIOGRAPHY
 アンディファンには、貴重な1枚。一番新しいアンディの素顔が見られます。







■ゴールド・アルバム 18枚
■プラチナ・アルバム 3枚
■レコード総売上世界中で4000万枚以上

●アンディは60年以上も厳しい業界の中でその要求に合わせ、自分を変えて生き残ってきた。
教会の聖歌隊で歌い初めた後、嘆き悲しむ国民に歌う、ゼロから出発しスターの座を得て、悲劇を経験しながらも、イツモアンディは歌い続けた。
レーガン大統領はAndy Williamsを「君の声は国宝に指定する」と言っている。

■声を国家の宝に・・・・by President Reagan Andy・56才
■1983年「Christmas in Washington」TV Specials from 1983で宣言。
 元レーガン大統領が1983年・アンデイの声は米国の寶といったそうです。ANDYは56才でした。
2007年12月クリスマス・イブにAndyファンからこのスピーチの入ったDVDを見る機会に恵まれました。約2分間のスピーチの最初の部分でした。チョット感動ものでした。2007/12/24記
私もANDYは米国の貴重な財産と思います。

                                    2006/6/28制作


■Pat・1  prologue ウイリアムス兄弟誕生・・・・・・








































1927年12月3日・ANNDY WILLIAMS誕生。   2006/6/28制作

● 人を形作る土地がある。その一つが伝統的な家族感を持つアイオワ州ウォールレイク。この家で1927年12月3日Andy Williamsは生まれた。

Andy「ウォールレイク」は小さい町。人口は749人。墓も入れてね。」
Dick「道路はすべて砂利道で信号もなく、標識も一つ」
Don「町全体が家族さ。住民皆お互いを知っていて楽しかったね。」

● ジェイは(アンディの父)仕事の掛け持ちし、妻の(アンディにの母)フロレンスとボブ、ドン、ディック、アンディ、そして娘のジェイニーを育てた。
Andy「ウォールレイクの小さな家でピアノの周りに座って、聖歌を歌った。なぜなら父と母と2人の兄が聖歌隊にいたから」
Don「そのうち、ディックも歌いたいと言い出してアンディも加わった」
Andy「アンディウイリアムス兄弟の誕生だったんだ」

● ジェイは夢を抱いた。息子達のハモーニーを聴き確信した。プロを目指せると・・・
Dick「父はセールスマンの死」の主人公、ウイリーローマンだ。私たちを通して自分の人生を生きたんだ。
● ジェイは息子らを応援し支援した。兄弟は家、学校、教会で歌い借金の為にも歌った。

Andy「バディと言う弟が2才の時に死んだ。私たち4人兄弟"ウイリアム兄弟は葬儀で何週間も歌った。弟の葬儀代金の為にね。毎日放課後になると葬儀屋で聖歌を歌っていたんだ。周りは人が亡くなって嫌なものだよ。葬儀では歌いたくないね。」


■1936年・WHOオーデション合格
1936年・WHOオーデション合格。

1936年ジェイは家族と州都デモインに移りラジオ曲WHOのオーデションを受けた。
Don「緊張で石になるかと思ったんだ。人生で一番怖かったよ。うまく歌えなかったよ」

●オーデションは不合格だった。ジェイの賭けは失敗に見えたが4人はあきらめなかった。その後6ヶ月間練習を重ね彼らの力は実った。2度目のテストに合格した。4人は朝のラジオ番組のスターとなる。

Don「アンディは本当にうまかった。子供の頃は美しい声でソロを歌った。」
Andy「母親の歌なら誰にも負けない。何百曲も歌ったからね。歌いつくしたよ。」

● より大きなチャンスを求め、一家はシカゴ、次にシンシナティへ移る。4人の稼ぎは週50ドルに増え、家族を養える程になり、ジェイはマネージャーに専念する。WLWシンシナティは世界最強のラジオ局であり、初のスポンサーを獲得した場

新たな挑戦・・・

● 1943年ラジオに続き、信念と大胆さを頼りにジェイは家族4人と西へ移り新たな挑戦を始める。
Andy「ロスアンジェルスに行って映画に出ると言うんだ。父の見つけて来たブング・クロスビーとの仕事をね」
死ぬほど怖くて皆で抱きあって震えたんだ。彼は私たちのヒーローだったからね。「星にスイング」と言う曲があってそれを一緒に歌う役を私たちに与えられたんだ。いいレコードに仕上がってよく売れたよ。」

● クロスビーの仕事で、銀幕のスターと言う夢の実現に一歩近づいた。
Andy「映画に6,7本出演した。4人でピアノ囲んでパーティで歌う若者の役を私達は演じたんだ」

1944年・アンディ・16才・MGMコーラスで歌う・・

● 第二次世界大戦によって彼らは引き裂かれた。ボブは陸軍へ、ドン、ディックは商船隊 へ。16才のアンディは入隊出来ず自立を強いられた。
Andy「MGMのコーラスで歌った。「ハーヴェイ・ガールズ」など・・「ハーヴェイ・ガールズ」はまだ歌えるよ。未だに忘れなんだ・・・・」昨日の事は思い出せないのに、1944年も事は覚えているんだ」

1946年ウイリアムス兄弟・ハリウッドで再結成・・・アンディ・18才。ケイ・トンプソンの出会い。

●アンディは両親と暮らし高校に通い歌い続けた。1946年ウイリアム兄弟はハリウッドで再結成する。だが・・環境が変わり彼等の先が見えない状態だった。1947年までに18才のアンディと兄達はビング・クロスビー歌い映画の出演も経験していた。だが第二次大戦以来、仕事が減り将来に不安を抱いていた。その頃であった。歌って踊れて曲も作る女性「ケイ・トンプソン」と出逢った。
Don「彼女はMGMと契約していた事もあり、MGMで歌の監督をしていた」
Dick「ジュディ・ガーランド、レナ・ホーンに歌や踊りを教えて、皆が彼女のまねていたんだ」
Andy「あの頃は映画産業が低迷していて、ナイトクラブで歌おうと彼女が言ったんだ。ケイとボブ・アルトマンの発案でミュージカル・レヴューをやった。クラブでやるのは初の試みだった。ボブ・アルトマンは素晴らしい振り付け師だった。」


1947年8月ラスベガス公演。

● 4ヶ月に及ぶリハーサル後、ケイとウイリアム兄弟は1947年8月ラスベガスで公演を行う。3ヶ月後にはハリウッド一番の人気のナイトクラブ「シローズ」になった。4人はケイとツアーに出てアメリカ中の高級クラブで公演をした。この時4人は父親の手を離れ、ケイが師となりアンディを育てた。
Merv Gviffin「アンディが一番優秀だケイは考えていた。実際その通りになったからね。素晴らしい声の持ち主さ、最高の音色だ」
Dick「彼女はアンディを庇護下に置いて基礎を教えた。何をどうすべきか。彼女のプ意識と完璧主義をアンディは受け継いだ

1950年、秋23才のアンディ・TV出演。

● 数年のツアー生活後ケイは休養を決定。そして1950年の秋23才のアンディ、ニューヨークから生放送されるTVに出演する。「カレッジ・ボール」」。アンディは今見ると随分ひどいTVだったと振り返る。番組が終わるとケイと4人は再び集まりさらに2年間のツアーを続ける。だが・・・TVがナイトクラブを脅かす、家で娯楽を得る用になる。
Don「私たちはもう行く場所が残っていなかった・これ以上続けても何もえられない。別々の道を進むべきだ」


1952年・NYでソロ活動始動・・・

● 1952年アンディは流れに身を任せニューヨークでソロ活動を始める。

Andy「ケイが全て考えてくれた。どの曲をどう歌うか、さらに歌い方や振り付けまでね。随分助けてもらった。怖かった。兄達がいなくて寂しかった。ステージは僕一人。僕にライトがあたらなかった時も有った。僕はバンドシンガーじゃないのに、あの時絶望感を感じて、そして思った。期待していたものとは違う。でも・・・他に何が出来どこに行ける・・?今はこれしかやるしかないと・・・。

2年間のクラブ出演・アルポを食べた日・・・・

● アンディは乗り越えた。彼の焦点は定まっていた。やりたい事や目標を持っていた。2年間彼は各地を転々とし、小さなホテルに泊まってクラブ出演をした。客がいなければ給料がなかった。

Andy「必死だったよ。大望なんてなかった。いかにして行く加それだけさ・・。犬を引き連れていた事が有って、何日か「アルポ」を食べたんだ。悪くないよ。アルポ葉美味しいよ。ドック・フードの中ではアルポが一番だよ。」

1954年高級クラブ「ブルー・エンジェル」に出演。

●ツアーの頃の状態戻ろうとアンディは必死だった。やがてニューヨークに戻り勝負に出た。2週間アンディは全国を回り認められようと悪戦苦闘した。
1954年、ラジオやTV界で顔を売る為ニューヨークの高級クラブ「ブルー・エンジェル」に出演する。その初演の夜が大きな変わり目となる。
Steve Allen「たまたま芸能界や人生でもよくある偶然と言うやつでアンディの公演を見てプロデューサーの「ビル・ハーバック」が気に入った。

Steve Allenショーのオーデション・・・。

Andy「彼が、Steve Allenショーのオーデションがあると・・・。僕はそれは誰と・・優な青年を見つけたと言うんだ。
S・ローレンス、E・ゴーメの他に2人探している。S・ローレンスの前で歌って私はすぐに決めた。」

Steve Allenショーの2年間・・・・。

Andy「本番緊張しっぱなしだった。でもなんとか持ちこたえた。1週間の契約だけど・・・もう来るなとも言われなかったし、翌週も顔を出して・・それが2年半も続いた。スティーブの番組から多くを学んだよ。カメラの使い方を意識する様になったし、いい訓練だった。」

ケイデンスレコード契約。

● 番組はアンディの夢は実現する。それは、それはレコード契約だった。

Andy「ケイの紹介でケイデンスレコードの社長「アーチー・ブライヤー」に逢う。ケイの演奏で歌ったらアーチーが気に入ってレコードを作れと言われたんだ。」

1956年「カナダの夕陽」がチャート7位。

● 2枚目のレコード「カナダの夕陽」が1956年8月チャート7位を獲得する。次の曲で社長はアンディにエルビスのまねを・・。不安だったが「売れたいかい・・・?と言われアンディは「ええ」と答えた。

Andy「彼は・これはヒットすると・・・エルヴィスのレコードを家に帰って僕の歌い方と違うがヒットがほしくてやったんだ。指を鳴らし、僕の曲で一番のヒットだったんだ。曲は「バタフライ」さ・・。

「バタフライ」が初の1位獲得・・!

バタフライは初のアンディが1位を獲得。4年間で11曲がチャート入り、独特のヴォカールの確立は近かったがまだ未完成だった。
1958年ついにアンディはTV番組のホストに・・・。アンディはスティブ・アレンに逢って意気投合した。

1959年CBS1時間番組に出演(モノクロ)

1959年の夏さらなるチャンスが与えられる。
CBSの1時間番組(モノクロ)ゲイリー・ムーアの代役で番組は大成功だった。批評も絶賛された。しかしレギュラーの話は来なかった。




■Pat・2 Claudineと結婚・・・・































Claudineとの運命の出逢い・・・。

● 60年前半、活況を呈するラスベガスでアンディは「フラミンゴ」。有名なカジノでメインを張っていた。

Bobby「母はパリ育ちのダンサーで8男3女の大家族の中で育てられた。ダンススクールにかよい、ラスベガスに来て「フォーリーブー・バジェー」にいた。

Claudine「初めて買った車だったわ。古いシボレーだった。オンボロで良く故障したわ。あの日もストリップ通りで」
Andy「そうだよ。彼女が友達と2人で車を押していたんだ。故障していたんだ。」
Dlaudine「困り果てていたら・・・優しい2人組が手伝ってくれた。その2人の片方がアンディだった。素敵な美しいものの始まりだった」

● 2人はすぐに離れがたい仲になる。1961年ニューヨークからカルフォルニアへ移る。

1961年12月15日、アンディはClaudineと結婚

1961年12月15日、アンディはClaudineと結婚する。
Bobby「素晴らしいカップルだった。子供の僕の目線かもしれないが、振り返って見ると2人は愛しあっていて、幸せだった。写真を見れば分かるよ。祖も頃の写真が今も家に飾ってあるよ。いい関係だった」

1961年・CBSコロンビアレコードへ移籍。

ダニーボーイLPの頃。
1961年アンディはCBSコロンビアレコードへ移籍していた。

1962年オスカーで「ティファニーで朝食を」を歌う。

● 1962年オスカーで「ティファニーで朝食を」を歌う様に頼まれる。

Andy「受賞は確実と思われていた。レコード化を提案したよ。他にも10曲。映画から選ぶ(ムーンリバーと主題歌音楽)いいねと言われ実現したんだ。」

● 授賞式の歌唱は好評を博しマンシニーとマーサー作のムーンリバはカデミー主題歌賞に・・。

ムーン・リバーと映画主題歌集(1963年)40万枚のヒット

Andy「すでにCBSコロンビアは全国にアルバムを出荷していた。翌日には40万枚以上売れたと思うよ。快挙だよ。そして今も売れ続けているんだ」
Cliev Davis「アンディとマンシーニーはユニークで特別だった。互いに理解し強い絆で結ばれていた。」
マンシニー婦人「アンディが歌う曲は最高のものとなる。だから・・ムーンリバーは彼の歌と認識された。あの曲を本当に歌えたのは彼だから・・」

Donny Osmond「他の人が歌うとものたりない。彼しかいないとね」
Senator John Glem「知り合う前からファンだった。初めてて彼のレコードを聴いた時を覚えている。ケープカベラルで打ち上げの準備中だった。ムーンリバーが出たばかりで、宇宙飛行機用の食堂ですり切れる程聴いたもだ」

Mery Criffin「長く記憶される曲だね。すたー・ダスト、時のすぎゆくままにの様に、この世の最も美しい曲の一つだ」

1962年、9月アンディ ウイリアムショースタート・・・。

● ムーンリバーのヒットでNBCから音楽番組のホストの話が来る。最高のチャンスとなるはずがその時は誰もしらなかった。
1962年、プロ歌手としてアンディは25年目となる。ヒットも放ちTVも出演したが、まだ果たせぬ夢が有った。
「アンディ ウイリアムショー」だった。

Andy「いい番組だったよ。これは胸を張って言える。その理由は、当時僕は仕事に対して何の考えもなかったんだ。歌が上手いとか、面白いとか、司会が上手いとか思わなかったんだ。今から考えられないいい番組だった。」

● アンディ ウイリアムズショーは、数ある番組にすぎなかった。目玉はもちろん音楽で、彼は自分のヒット曲やスタンダード曲を歌った。

■1962〜67のプロデューサー・・・・
Bob Finkel「私たちはショーに、ある種の雰囲気を持たせ様と考えて、選曲した最終決定はアンディに任せた。音楽に関する判断で彼に反対した事は1度もなかった」

Don「彼の歌は暖かくて心地いんだ。どこか楽天的でもある。つい聴きたくなるんだ」
Dick「独特のスタイルだ。ゆったりとしたとても素晴らしいと私は思うよ」

レコードプロデューサー・・・・・・
Clive Davis「歌を身近に感じさせてくれた。彼は曲を選ぶ時、その曲に関わっている事を特別な形で、一番上手く伝わる様に選んでいた。曲を輝やかせるんだ」

Andy「1時間の中で僕が一番楽しみなのが次のコーナーです。プロデューサーのBobと番組の企画を考えた時、
20分程時間をもらって観客と座って話し、彼らが聴きたい曲を歌いたいと言ったんだ」
Bob「ああ言う状況に立ち向かう人はは少ない。ストゥールに座って台本もなく青写真だけで3,4のアドリブで何かやってくれる。そうやって彼は観客の中にとけ込んでいくんだ。」

Andy「皆さん、私の父と母を紹介します。父が私にきっかけを与え母が支えてくれました。毎週2人が僕の番組を見に来てくれて嬉しかった。」

1963年2月・TVショーは終了・・・。

● アンディの魅力は存分に発揮された。だが・・・視聴率は落ち込みわずか5ヶ月でアンディの夢である番組は打ち切られた。
1962年9月アンディの番組がNBCで始まった。TVと言う夢を彼は実現した。視聴率低迷し1963年2月で終了した・

1963年、秋にTVショウー再開・・・

●しかし・・・スポンサーがアンディを土壇場で救った。秋に(S&Hグリーンスタンプ)がスポンサーになる。

TVショーはエミー賞を受賞・・!

しかし・・・失敗したものの皮肉な事に彼の番組はエミー賞を受賞した。
Andy「TVは不調だがレコードは相変わらず好調で2番目のヒットは「もう、離さない」。こんな曲売れないと思ったが間違いだった。」


セーター販売の会社と番組制作の会社を設立。

● アンディは経済的に余裕が出来セーター販売の会社と番組制作の会社を設立。

長女・Noelleの誕生・・・!

1963年アンディにとって最初の贈り物はノエル誕生だった。

Andy「何をしても誇らしいと思うんだ。何をしてもいいんだ。鼻水垂らして可愛いんんだよ。」

Noelle「私にとって父は唯一、最大の影響を与えてくれた人。全てにおいて・・特に人格形成や芸術教育の上でね。色々な理由で・・・。」
Andy「ノエルとはよく散歩したよ。」

Noelle「父の娘でよかった。自慢の父よ。魅力的で特別な人だから、隣にいるだけで、私も特別と思えた。


1963年アンディは特別番組で成功・・・

● 1963年アンディは特別番組で成功を収める。
視聴者は彼の気どらない人柄と優雅さに魅了された。そして・・成功の要素の一つが思わぬところから見つかった。

Osmod Brothers 登場・・!

Andy「父から電話があって、素晴らしい少年4人組をTVでみた。若い頃のお前達兄弟を思い出させるグループがいると・・。それがあの・・「オズモンドブラザース」だったんだ。そしてオズモンド・ブラザースはアンディの番組に足かけ6年続いたんだ。」

Jay Osmond「我々の原点は、何をしていてもあの番組を見ていた。ドラムもバンジョーも歌も・・・。振り返れば全て・・あの番組にたどり着くんだ。」
Andy「彼等は・・きっと一晩中練習をしたのだろう。いつも完璧だったよ。」
Merrill Osmond「アンディを喜ばせたくて、家にアル小さな稽古場で完璧に出来るように朝になっても練習をしていた。そうして・・翌日に控えたんだ」

Andy「ワンテイクのオズモンドと呼ばれていたんだ。」
Jay Osmond「カメラの前でやる頃には、万全の状態さ・・」まだ小さかった僕には大変だった。僕のに安心感を教えて手くれたのはアンディだけだった。
Donny「僕の永遠のアイドルさ。僕のヴォーカルの先生。」
3才の頃、母は彼に曲ばかり聴いていた。僕も何時間もその曲を一緒に歌った。そうして覚えたんだ。」
Donny・・・アンディとユー・アー・マイ・サンシャインの歌うシーン。

Doony「今でも覚えているよ。TVにでている自覚はなかったんだ。スタジオの観客だけだと・・。アンディが笑っていた。何故なのか不思議だった」そして・・・この仕事を最高だと思ったんだ」

Marie Osmond「私は3才の頃だと思う。羽の付いたグリーンのドレス、金に靴下にダイヤのネックレス。父が私を持ち上げて舞台に乗せて・・あそこのおじさん(アンディ)がお前とダンスしてくれるって・・・・・。
Andy「この子がOsmond兄弟の末妹のMarrieです」
Marrie「近くで顔を」見上げたら、ハンサムすぎると思ったの。恥ずかしくてずーーとしたと床を見ていたわ・・・」
アンディとOsmond 兄弟ののTVのシーーンでした・・。



アンディ ウイリアムスショーの黄金時代が到来。38才。

●アンディのTVショーは好調で視聴率も伸び秋から彼は大役を任される。彼の落ち着いた進行が効をなしてトップタレントも出演した。
アンディ ウイリアムスショーの黄金時代が到来する。
37才のアンディは表舞台に復活を果たす。

パット・ブーン「彼は、ゲストをユーモアでもてなし、アンディの番組に出る事は1級の経験だった」
ロバート ワーグナー「彼は、みんな安心感を与えてくれるんだ。楽に気持ちにさせて、ゲストの魅力を引き出すんだ」

●中でも彼の番組に最多出場のコメディアン「ジョナサン・ウインタース」は・・・
ジョナサン「アンディの仕事は楽しかったよ。彼は少年の心がある。少年2人が人生と言う名の遊びでは、お互いに探り有った。アンディはいつも素直で純真名気持ちで調子を合わせてくれる」




1966年と1967年にはバラエテー部門受賞。

●高い水準を維持し、番組は毎年エミー賞候補となる。
1966年と1967年にはバラエテー部門受賞。今や完成されたその声でヒットを放ち続ける。








■Pat・3   アンディ・大スターに・・・























酒とバラの日々・アルバムの頃・・・・・・

酒とバラの日々・デアハートの頃・・・

Andy「マンシニーとジョニー・マーサーに曲はどれも大好きだよ。」
マンシーニー婦人「ヘンリーは、アンディに恩がある。アンディが夫の曲を自分のものとし、特別なものした」
Andy「とても歌いやすく、とてもノシタルジックだ。我が町と言う感じだね。」
Donny「ディア・ハート」を聴くと心がとろけてしまうんだ」
Clive Davis「シンプルな演出、歌の魅力を存分に引き出す。それをアンディは確実にやってのける」




そして・・アンディは大スターに・・。

● そして・・アンディは大スターに・・・・
アルバムは何百万枚も売れアンディは大スターに・・・。
ゴールデン・グローブ賞の司会もつとめる。
1966年のシーザース・パレスのオープン初日を飾る。

●資産家となり、果樹園、不動産に投資。NBAフェニックス・株の過半数株式を取得。
●ゴルフ・トーナーメントを20年主催した。

Jack Nicklaus「サンディエゴのトーナーメントに出してくれて嬉しい。彼は多くのプロ・アマゴルファー戦でプレーした。ゴルフにも貢献してくれて感謝している」

60年代、アンディは高みへとのぼり続けた。しかし・・・その代償は心に傷を残す事に・・・。
1966年・Christian 誕生。。!

1966年息子のクリスチャンが誕生するが、仕事の為家族と離れている時間が多かった。

Andy「人生で一番の後悔は夏にちゃんと休暇を取って、子供達と過ごさなかった事なんだ。」

Christian「父はとても仕事に熱心だった。いつも仕事があって、そこへ入り込んだ。休みの時、僕達を呼んで色々なところに行けた。その点は楽しかった。ただ・・好きなだけ逢う事は出来なかった。」
Nolle「有名人の子供でsる事はいい点と悪い点がある。いつも一緒にいたかった。大好きだから・・・。ただ・他人も彼を好きたっだから・・・」

1967年のシーズンが終わると番組を終了宣言。

●家庭と仕事の両立で仕事を減らす決意する。
1967年のシーズンが終わると番組を終了宣言を・・。特番だけは続ける事に・・・・。

家族と過ごす時間が増え、友人と会う時間も増えた。




ロバート・ケネディ家との出逢い・・・

Andy「僕たちがリハーサルしているとき、ボビー(ラバート・ケネディ)が来て自己紹介をしたんだ。いつも見ているエセル(ボビーの奥さん)は君の大ファンだ。子供達も好きだし、挨拶したい思ってたと・・・」

●  アンディ夫妻とケネディ夫妻は親しくなった。この友情は喜びと共に苦しみと悲劇をもたらす事に・・・。

1966年は輝かしい1年だった

1966年は輝かしい1年だった。愛す妻、2人の子供、番組は高視聴率だし、思わぬ収穫ももらえた。
夫妻に新しい友人を迎える。元宇宙飛行士「jジョン・グレン」や「ボビーとエセル・ケネディ」ケネディ夫妻は2人をパーム・スプリングに招待した。

Andy「映画を見た後、車に乗って4人で歌い出したんだ。彼は歌は好きだったが歌は下手だけど、歌詞は良く覚えていたんだ。両夫妻は親友になりスキー仲間でも有ったんだ。」

1968年、ボビーは大統領選に出馬。

● 1968年、ボビーは大統領選に出馬。アンディがキャンペーンを行う。民主党党大会が近づくとボビーは、アンディの頼んだ。

 1968年6月5日ボビー銃弾に倒れる・・!

● 1968年6月5日アンディ達はロスアンジェルスの「アンバサダーホテル」にいた。ボビーが予備選に勝ちスピーチする所だった。
Senator John Glen「私達は部屋にいた。私達もステージに立つ予定だった。だが・・・あまりにも希望者が多かったので、アンディと私は部屋に残った。
ボビーの演説「皆さん・・・有り難う・・。次はシカゴに発ちます。」

が・・・ボビーは・・・射撃された・・・・。

Andy「彼が撃たれて、私たちは急いで下へ下りた。すでにボビーは病院へ・・。私たちもすぐ病院へ向かった。私たち行くと・・・彼は体中に管につながれていた。顔が真っ赤になって、息絶えていた。悲劇、ショックだった・・・・。
ただ・・・彼は・・特別だった・・・。本当に大事な人だった・・・。大統領になってほしかった・・・。この国に役たてる人だった・・・。


ボビーのお気にいりの「リパブリック賛歌」を歌う。

● エセル婦人からアンディに追悼式で歌う様に頼んだ。

Andy「キャンペーンの最中、ボビーのお気に入りは「リパブリック賛歌」だった。エセルにそれを歌ってくれと・・・
歌えるか不安だった。果たして感情が押さえられるかと・・・・。楽しみに思える事じゃないから・・・ね。」

● アンディは落ち着いて見事歌い終えた・・。

Andy「ボビーがなくなってしばらくは僕も友人も喪に服していた。家族の死を乗り越えるには時間がかかる。ボビーは家族だった。彼は僕の大きな友人で尊敬もしていたんだ。」

クリスティーヌ「とても悲しかった。アメリカにとっても私たちにとっても・・それから・・数ヶ月たって・・私たちに子供が出来た事が分かったの。彼に敬意を表してボビーと名付けたわ」

1969年8月ボビーの誕生

1969年8月ボビーの誕生が二人にとって夫婦として、最高の喜びだった。





■Pat・4  離婚・クリスマスショー・そして彷徨いの果て・・・























別れの予感・・・

■別れ・・・・
Andy「仕事の忙しさから・・僕たち離れて行った。何故かわからない・・・そして・・僕とクローディヌは別れたんた。」
Claudine「わずかだったら最初は気付かなかった。何が有ったか分からなかった。アンディは多忙だった。キャリアを築くのは大変で、それに心血を注いでいた。その代償を家族として払ったと思っている・・。」
そして・・・離婚・・・。

Andy「家を売り子供達を連れて彼女はアスペンに移ったんだ」

クリスチャン「両親が別れた時、僕はまだ幼なかったから、それほど衝はなかった。姉位の年なら違ったかもしれない。父は仕事で家を離れ母と暮らして、たまあに父に逢う。離婚してもその生活がほぼ変わらずにいたんだ」

Bobby「離婚に気付かない位いい関係だった。友達からは・・離婚は大変だと聞いていたけど、自分の両親もすでに離婚していたんだ」

Noelle「父は私達との時間を作ってくれたわ。とても大事だと考えていたわ」

Bobby「父は出来る限り僕たちと接し様としたんだ。どんな事してるの・・?何を考えているの・・?いつも連絡を取り心配してくれた。僕たちが進む方向を間違がえのないかを考えてくれたんだ」
ウイリアムス一家、そして・・アメリカを一つにする季節。

ウイリアムス一家、そして・・アメリカを一つにする季節が有った。


「アンディ・ウイリアムスショー・クリスマスショーの12年間・・・・

「アンディ・ウイリアムスショー・クリスマスショー」だった・・。
Christian「父がクリスマスに似合うのは家族思いだったからだ。クリスマスは家族で祝う・・ネ」
Donny「基本的なものは家族だとか・・そして・・才能や歌・・それが・・クリスマスの原点なんだ・・」
パット・ブーン「クリスマス特番では、最高の音楽とゲストが見られる・・それだけでなく、アンディの家族が出る、彼の両親や兄弟も・・・ね」

TVはウイルアムス兄弟の「ジングル・ベル」の映像が出る・・・

Don「一緒に歌うのが大好きだった。グループで歌っているといいなと思う事が有るんだ・肩も腕も肘も全部みんなでよせあう事さ・・・」
Dick「また。歌えて楽しかった。一緒になれて、ワクワクしたよ。父さんの夢も叶ったよ。」
Andy「父は自分では面白いと思っていたんだ。僕達は離婚してからずっと続けたんだ。」
Claudine「何年も続けいて強い絆が有ったから・・・。クリスマスショーはやめられなかったの。生活の一部だった。それに心地良かった」

Andy「離婚した人達誰もが憎しみあう訳じゃない。僕らもそうさ・・・。」

Claudine「今でもクリスマスショーが好きだと言われる。彼等にとっても特別だから・・。彼等も楽しみにしていたから・・」


放浪の彼方に・・・漂流・・そして・・彷徨の果てに。


放浪の彼方に・・・漂流・・
● 12年間クリスマスショーは全米に人々がチャンネルを見ていた・・・。
60年代後半、アメリカは社会的、政治的な変化を経験し一人になったアンディは居場所を探していた。

Andy「しばらく迷子だった。したい事も分からず各地を回って旅をしていたんだ。幸せでもなく漂流していたんだ。」

●アンディに取って不安な時期が訪れる。今まで自分を変えながら続けられた・・だが・・・70年代に入ると人生で最も深刻な問題に直面するのだった・・。

1969年、結婚解消・・・。

1969年、アンディに適切な事は”変化”ファッション、髪の長さ、音楽も変化の中、アンディは最大の変化は「結婚解消」だった。
彼は忙しい仕事期間に突入する。


1969年の秋、アンディはTVに復帰する

「アンディ・ウイルアムスショー」
1969年の秋、アンディはTVに復帰する。それまでとは違った番組にしたかった。

Andy「夜の7:30分と少し早めの時間で。子供が喜ぶ事をやるのも楽しいと思ったんだ」



番組は高視聴率、・CBSTV。土曜日の夜7;30分の放映。

1969〜1971年プロデューサー
Allan Blye「パートのクリスピアードとそれから数年2人で番組を演出し脚本を書いた。本当に楽しかったよ。観客に近いセットになりコメディが増え音楽が減ったんだ」

Andy「最先端だった訳ではないけど・・型破りだったね・・当時はね・・。毎週熊が玄関に入ってきて・・「よう・・!
兄ちゃん・・・!・ってね。番組は高視聴率で・・CBSTVだった。土曜日の夜7;30分の放映していたんだ。
「ジャッキー・グリースンショー」を上まわった。最高に楽しかったよ。

● 最高の歌手で笑いのセンスも最高だった。彼にとっても大きな賭けだった。驚く機敏さでアンディは嵐を切り抜けた。ポップ音楽は変化したが、彼のヒットは続いた。(ラブストリーの頃)
番組はNBCで2年間放送された。

1971年の春・打ち切りに・・・ホスト時代の終わり・・。

1971年の春、役員が・・形式が古くなったとして打ち切りになる。
全国放送の番組のホスト時代は終わりを告げた。







■Pat.5 アンディ・・・63才の冒険・・・・・


















第13回グラミー賞の授賞式に・・・7年連続司会に。

 しかし・・彼の存在を音楽業界に欠かせなかった。ハリウッドから初の第13回グラミー賞の授賞式に・・・

現在の様な形でグラミー賞があるのはアンディのおかげだ。
Andy「ショーの可能性を感じていたんだ。それに、レコード業界にもこのショーが必要だった。

● グラミー賞でアンディが7年連続で司会をつとめる。これが下降線をたどる中唯一の舞台となった・・。
さらに・・

1976年・またもや・・一発の銃弾・・!

● 70年代、アンディは苦しんでいた。番組もなくしレコードも売れない。離婚後の私生活では目標を失っていた。そして・・1976年3月とある午後、またもや一発の銃弾がアンディの家族を脅かす。

「クローディヌが人を撃ったと・・・」・・・
Andy「まず・・子供が気になった。そばにいてやるべきだと・・。彼女を支え、子供の面倒をみるべきだと・・・」

Claudine「1976年は私にとって、とてもつらくて苦しい時期で、アンディがいてくれた。支えてくれると分かっていた」

● 彼女は恋人であるスキー選手(S・サビッチ)の殺人罪といわれる有罪なら最大10年の実刑となるはずだった。

Noelle「1976年の悲劇に関しては、本当に恐い時代だった」
Bobby「まるで・・世界が崩壊したみたいだった。互いに支えあいずうっとそばにいた父も母のそばにいて、そして何とか切り抜けた。」

Noelle「父が最初からいてくれてとても安心出来たわ」
クリスチャン「母が悲しんでいるのを見るのが僕は悲しかった。母の心は引きさかれ家族は絆で・・家族を守りたいと思った」



Claudine 過失致死・30日服役・そして釈放・・・

Andy「手に負えなくなった。国際的な騒ぎになって四六時中ニュースで流された。すぐ駆けつけて本当に良かった」
● 下された判決は過失致死。軽罪となった。30日服役して釈放された。

Andy「あれは事故だったと信じているよ」

クリスチャン「絆が深まった。ああいう経験で家族はこわれずに、さらに強くなった。」

そして・・・両親の死・・・。

● 試練が去り、LAに戻ったアンディをさらに悲しみが襲う・・。両親の死・・

Andy「父は僕たち兄弟にとって大きな存在だった。彼がいなくて本当に寂しくおもってしまう。彼は愛情に満ちた頭のいい人だった。」

● 父の死からまもなく、アンディの母も亡くした。

Andy「彼女は昔気質の母親だった。家族と子供以外には、あまり興味を持たなかった。素晴らしい人生だ。死ぬ時まで愛し合っていた。いつも手をつないで2人は幸せだった。」


 
1977年15年間所属していたコロンビアレコードを解雇。

 1977年15年間所属していたコロンビアレコードを解雇される・。


パット ブーン「ベルエアでゴルフしたあと食事をして時があった。彼は真剣な顔で言ったんだ。精神科医に逢ってるってね。(リグレット)

Andy「困難な時期だった。進むべき方向を見失っていた。何をしたいのか分からなかった。」

●70年代が終わりアンディの上昇気運も終わった。TV出演は有っただがやりがいのある仕事は少なかった。

その後・・・・良きせぬ新しい刺激が彼を救う・・。







新しい出逢い・・・・・Debbie・・。
Debbie「初めて逢ったのは、共通の友人の紹介だた。
Andy「君にぴったりの女性がいると・・・・僕は・・・分かった。・・じゃ・・逢うよ」
Debbie「逢ったとたんに縁を感じたわ。初めて経験する気持ちだったわ」
Andy「何も・・思わなかった。もう・・結婚はないと。でも・・・いい出会いと時期があれば・・・」
Debbie「ある日、台所で・・。”したいか・・?”って
私は「何をって聞くと・・・”したくなにのか・・?”・・
私は。。もう1度聞くと・・・アンディが・結婚だよってーーー。
随分なプロポーズね。
私は”もちろん”と答えて空泣きだしたわ・・。
アンディ63才だった

● アンディは1990年代後半にDebbieと再婚する。(たぶんアンディ。69才位かな?)


アンディ・・・63才の冒険だった・・・。

● 彼は新しい妻と活力を手に大胆な行動を起こす。

Don「アンディに電話して・・ミズリーいい所がある。ここに来るべきだと」
Andy「彼に逢いに行って我が目を疑ったよ。すでに「ブランソン」には劇場が20件逢ったんだ」

妻「ニューヨークのアパートを売ってLAの家とオフィスビルも売ってミズリー州に引っ越すぞって言われたの」

Andy「僕が変になったと思って友達は正常かと・・」

● 優雅に消えて行くより、アンディは冒険を選んだ。全財産と名声を賭けて、田舎町のポップ音楽を」持ち込ん






■Pat・6 an epilogue  アンディはどう記憶されるべきか・・?


















































ブランソンに行って劇場を建てるまで・・・

Andy「ブランソンに行って劇場を建てるまで、目標がなかったがやっとやりたい事が見えたんだ。自分の劇場を建設そして、そこで働きたいと」


12ヶ月間数百ドル級の最先端施設の建設まで・・。

● その後12ヶ月間数百ドル級の最先端施設の建設を目指して資金を集める。

Andy「劇場に僕を投影したかった。TVヤレコードで築き上げたものを・・・ね。僕は期待したものは全くの違った種類の劇場で質の高いものを・・・・・」

1992年ムーンリバー・シアター・完成。

ムーンリバーシアターに勝るものはない

●ニューヨーク市の劇場は全て知っている。ムーンリバーシアターに勝るものはないと・・・
パット「ロールスロイルだね・・・・・・」音楽に照明にセット、さらに劇場全体の雰囲気。ここに来ると本当に感覚ヘの刺激が得られるんだ」

妻「ここは彼の想像の場所なの。彼の夢や思い・・・・心からの・・・」
Djck「全て彼が考えたんんだ。背景のそうだ。。。、たいしたものだ。本当に誇らしくおもうよ。」


彼はハイリスクな賭けに大成功・・!

● 彼はハイリスクな賭けは大成功し毎年劇場に何十万人もの人々が彼のショーを見にくる。

クリスチャン「人を楽しませるのが、彼の喜び何だ。その機会をここで得たんだ。クリスマスや旅先に限らず、常に出来るのが幸せなんだ。人を楽しませるのが・・好きなんだ」

● 彼がブランソンで活躍する中、海の向こうで大変な事が起きていた。なんと・・英国車のCMデアンディが大ブレイクしていた。イギリスツアーも企画された。


英国車のCMでアンディが大ブレイク

● 英国車のCMデアンディが大ブレイク。ツアーも企画された。だが・・アル夜、彼は今まで支えて世界中の心を・・・彼の夢を・・・ものが失なわれてしまう。
90年代後半にはアンディは再婚しミズリー州ブランソンで復活を遂げていた。そして英国のCMが・・・
彼の30年前にの歌を使用し若い世代に彼を紹介した。

Andy「イギリス中の若者が問い合わせ始めた。「あの歌を歌っているのは誰・・?」その人気に乗じて再発売されCDシングルはTOPチャー入りする。アンディのUKツアーがくまれる。があ・・・・突然中止される事のなる。


アンディ、喉頭炎に・・・・そして復活。

Andy「とても馬鹿な事をした。喉頭炎だった。でも・・・2000人も来ているのに僕が出ない訳にいかないだろう・・。遠くから来ているのに・・・。それで・・喉頭炎なのに歌ったんだ。歌と喉に負担がかかった。ショーの最中に喉を痛めたと気付いた。

Debbie「おかしいね、でも・・・明日までに直るわ・・・。翌日も直らず少し不安そうだったわ・・」

● 医者は声帯にしこり和見つけた。彼は絶望を経験する。

Debbie「歌えなくなったり、好きな事が出来なくなったら・・?と怯えていた。一人だろうが、客がいようが、歌う事は彼の人生の一部なの・・・」

●手術を薦められたが・・もし失敗した場合歌はおろか・・声すら失う可能性が有った・・。

Debbie「別の医者に行くと、その医者は3ヶ月ほど喉を休めては・・?と・・。手術以外なら・・何でもすると・・・」

Andy「3ヶ月後、しこりは半分ほどに・・まだ休めと言われ僕は仕事をさらにキャンセルしたんだ。8ヶ月待つと祖こりが完全にきえたんだ。その後異常はなかったんだ。ただ。。1年も使っていないので鍛える必要が有った。」



全治して・・イギリスツアーへ・・・!

●全治するとイギリスへ向かった。復活した人気をアンディは楽しんだ。

Andy「信じられない程の反応だった。バタフライの時の様だった。だが・・・観客の半分は50〜60才で・・・後17〜20才だった。初めてパンティーが投げられたよ。」

●アンディはイギリスで注目の的に。
アルバムは再発売され軽快名25曲を集めたコンピレーションも発売された。

Andy「イージーの帝王と呼ばれている。おかしいだろう・・・!アンディの73才の女たらしだ・・。
たまーあに・・考えるのは「引退」なんてしたくないと・・。僕が幸せで歌も上手く歌えている内はね・・。
今はまだ上手く歌えている。好きな事はやめる理由はない。家族に愛されて、素晴らしい奥さんもいて・・・」

Bobby「ゴルフをして犬を可愛いがって幸せだと思う・・」



アンディ・幸せな生活の中で・・・。

●アンディの物語は幕を閉じる。音楽と彼の兄弟と共に父の夢を叶えて久しくアンディは「Don」と「Dick」に僕の家で一緒になる。

Andy「ボブは少し痴呆がが進んでいる。時々自分の娘が誰か分からなくなる。頭がさえる時もある。僕たち4人で座って昔の話しをして歌い出す。すると・・彼も歌うんだ。本当に素晴らしいかったんだ。それ以来集まっていないmけれど・・・。あれは本当に最高だったよ。」

■ウイリアムブラザース時代の4人兄弟の「ドリーム」が流れる・・。

● 80年近いキャリアの中で、アンディは私生活でも、仕事でも困難を乗り越えて数々の作品をここまで乗り越えてきた。

Danny「だれでも歌は歌える様になる。でも歌を・・・自分のものにして、聴く人の心を動かせるのは才能ある人間だけだ・・。アンディがそうなんだ・・・」

Robert Wagner「彼は何度ムーンリバーを歌ったと思う。今まで一体何度あの曲を披露した事か・・。それでも・・・いつも初めての様に歌う。偉大な歌手のの見本だ・・・」

・・「彼にとって、人生で最高のポップ歌手の1人だ・・。」

Pat Boone「1954年に一度だけ音を外し・・もう二度としないと言った・・。本当だよ。」

・・「アンディは完全主義だった。音もパフォーマンスも・・」

・・「愛してるよ。アンディ。本当に君とはいつも楽しく過ごせたよ。今でも最高だ。君はアメリカに愛されいるよ。後・・ウルグアイの一部、サンティアゴにも・・・」

Marie Osmond「アンディは世代を超えて愛されている。今でも彼は世界中で一番美しい声をしている。それにハンサムよ・・」

アンディはどう記憶されるべきか・・?

Ddic「彼はどう記憶されるべきか・・?彼はどう記憶されたいなら・・想像がつくんだ。多くの人に、多くの喜びを与えた一人の人間だ・・」

Debbie「私が誇りの思うのは、j彼の人柄、死して今ある彼がここまで来るのに必要とした努力、精神力が強いのね・・」

Andy「難しいね。どう記憶されたいか。レコードやTVをやった人間はラッキーだよ、人々に記憶され、何度も見られ、聴かれ続ける・・・。

僕が記憶に残してほしいのは僕の音楽なんだ。
                                          2006/6/28制作



Andy「僕が記憶に残してほしいのは僕の音楽なんだ・・・」

● エンディングに・・「ムーンリバー」が流れる・・・。約90分・・。

  ■2005 Moon River Enterprise    

■ジェイ ウイリアムス(父)
■フロレンス ウイリアムス(母)


■Bobby Wiliiamus(次男)
■Christian Williams(長男
■Noelle Williams(長女)

■Debbie Williams(現在の妻)

■Bob Williams(長兄)
■Don Williams(弟かな)
■Dick Williams(兄)
■ボブ ウイリアムス(長兄)
■ジェイニー ウイリアムス(妹)

■Claudine Longet(元妻)

■Steve Allen(歌手)
■Allan Blye
■Pat Boone’(歌手・アンディと同世代の活躍した・・)
■Pierre Cossette
■Clive Davie(プロデューサー)
■Bob Finkel(1962〜1967プロデューサー)
■Merv Griffin
■John Glenn(宇宙飛行士)
■Ginny Mancini(マンシーニー婦人)
■Jack Nicklaus(テニスプレイヤー)

■Donny Osmond(オズモンド兄弟・一番弟・アンディと)TVでユー・ア・マイ・サンシャインを歌う)
■Jay Osmond
■Marie Osmond(兄妹・小さい時アンディと競演)
■Merrill Osmond

■Robert Wagner(俳優かな・・)
■Jonlhan Winters(コメディアン)アンディの番組に最多出演・28回。
■Adam Block
■Jan Bridge
■Ron Clrk
■Tom Cording
■Bill Dicice
■Lany Kartiganer
■Bill Royer
■Robin Siegel
■Paul Surratt
■Gred Vanbeey


■アンディ・ファミリー・・・・。Andy and his family

語る・・17分。




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                                         2006/6/28制作


 
ディーヴ・グルーシンへリンク

 DAVE GRESIN

1934626日コロラド州デンバー生まれ。
コロラド大学在学中からテリー・ギブスやジョニー・スミスと共演。50年代後半ニューヨ
ークへ移り、
1963年から1966までTVの「アンディ・ウィリアムス・ショー」他TV番組の伴奏・作曲を手がけ、ベニー・グッドマン楽団のピアニストとしても活動。

70年代フュージョン・ブームにのってトップ・アレンジャーとして活躍、リー・リトナーやアール・クルーを育て、渡辺貞夫のフュージョン・アルバムを次々と手がける一方『ジェントル・サウンド』『マウンテン・ダンス』等ソロ・アルバムを発表。

78年に自らのレーベルGRPを創立、ジャズ/フュージョンの名作を数多くリリースする。67年映画「卒業」のスコアを手がけて以来映画音楽の分野でも活躍し、「天国からきたチャンピオン」(78)、「黄昏」(81)、「ザ・ファーム 法律事務所」(93)などでオスカーにノミネートされる。
「ミラグロ/奇跡の地」
(88)でアカデミー作曲賞を受賞。




 
ディーヴ・グルーシン、アンディを語る

生番組のショーはいつも・・緊迫感いっぱいだったんだ。念入りな準備が必要でさ。誰もが順調に行くと思っていてもいつも何かが起こってたんだ。何事も予定より時間がかかり、生放送の場合、始まり良くても終わり時間は待ってくれないんだ。後で編集するなんて出来ないしネ。Andyがそのゾーンに入ったところには不可能はなかったんだ。毎回ショーを重ねる事にアンディは腕をあげていったんだ。

気楽にやれる様になりアンディが努力している場面は見えなかったよ。公表してしまうけれど・・とてつもない努力がをしていたんだよ。伴奏なしで歌ってバンドが入ると音程がピタリさ・・。ライブではいちかばちかしかなかったから・・ネ。

ANDYははどんな音楽ジャンルにも恐れなかったんだ・・。
カントリーソングやラブーバラード、スタンダード、ジャズも歌い珍しいのも歌ったよ。けれど・・常に自分のものにしていたんだ・・・。


     ■カルロス・ジョビンとアンディについて語る・・・・

ANDYはブラジル音楽の影響だと思うんだ。ジョビンは数回出演したよ。ジョンビンを通して素晴らしい才能を持った、全てアンディが60年代のムーヴメントに関心持っていたからさ・・。
ボサノバやサンバのリズムはミュジシャンにとって、どても誘惑的で魅力的だったと思うよ・・・。私達はコール・ポーターの曲を使いボサノバリズムを取り入れた事もあったんだ。
ボサノバはコードもメロディも全て美しい曲さ。ここに感じられる新しいリズムにアンディは感激を受けていたんだ・・。

    


ANDYは語る


兄弟やケイ・トンプソンと一緒にカントリーやジャズを歌たんだ。
グループでの経験から他のスターと旨く合わせる事が出来たんだ。
ショーライブをやる事で自然さと興奮があったんだ。生でお行なわれる公演がしっかり計画されたスタジオより好まれる様にライブパフォマンスを好む人が多いから・・ネ。
ライブを見ると興奮するよ。。全て・・ライブでやったショーは臨場感があるし・・ね・
そこが魅力的なんだ。


 ボクは6才の頃から23才までずっと兄弟と歌ってきたんだ。
とても長いグループ活動だったんだ
。そして・・ソロで歌うようになった時は寂しかったよ。
3人が横にいない状況に慣れなかったんだ。そして・・ようやくソロで歌う様に慣れた頃番組を持ったんだ。


   ■アンディ、サイモン&ガーファンクルを語る・

サイモンとガーファンクルを初めて見たのはサンディエゴさ。
まだ新人で・・・ネ。人気もあって大スターではなかったんだ。けど・・驚いたよ・・。
彼等はスツールに座ってマイク
1本とライト一つで2週間歌っていたからさ・・。
本来ステージは軽くダンサーやシンガーがいるもので、最初奇妙だったが・・、1本のギターと2人の声に慣れてきたんた。そして・・ものたりない状況の中で彼等に集中力に魅了され、とても・・素晴らしかった。彼等を迎えた時、一緒に歌たくて・
・「スカボロ・ファア」を選らんだんだ。経験が役に立ち合わせて歌のは簡単だったんだ。

■画像上でリンク

ANDYは今も、歌い続ける・・・・・

最も愛された歌手として、ANDYは美しく優しい・・ウォームヴォイスの歌声でいつもファンを魅了してきた・・・。
ゴールドディスク18枚、プラチナディスク3枚、レコード総売り上げ世界で4,000万枚以上。
60年以上も厳しいこの業界の中で、その要求に合わせて生き残ってきた。教会の聖歌隊で歌い初めそして・・ファンの前で歌う。ゼロからの出発して、スターの座を得て悲劇を経験しながらいつもANDYは歌い続けている・・・。



 

2009/04/12記







■ムーンリバーと私のDVDを参考に制作しました。2006/06/28/制作。

アンディー

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