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■アマゾンuk Christmas With Andy Williams
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■Evening With: Live From The Royal Albert Hall 1978
■Evening With: Live From The Royal Albert Hall 1978 ANDY 51才 |
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■2009年5月1日・チャンネル銀河・字幕スーパで1度のみ放映。 字幕を再現しました。 ●はイタビュー |
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●♯1 歌の仕事を始めて意識したのは6才の時だ。母に頼まれて1才上の兄ディックと一緒にお茶会で歌った。 アイオワにいた頃だ。兄とデュエットしたよ。 曲名は「ボクの素晴らしい母」。 家に帰る時、老夫人2人に話かけられたんだ。「歌が好きなんでしょう・・ネ」 私は言いたい事をぐっとこらえて・・「はい、とても・・」と答えた。 本当は嫌いだったのに・・。 長年「歌は楽しい」と嘘をついて来たよ。今は楽しみめるけど・・ネ。 嘘なんですか・・? お茶の会で歌っていなければ歌手にはならなかったとおもう。 とはいえ・・私3人の兄は4人グループとして歌う様になり、良くラジオにでた。 でも・・私は放課後は野球をやりたかったよ。 歌の練習なんかよりもね。 夜や朝にラジオ番組で歌うなんて嫌いだった。ソロになる前は本当に苦痛だったよ。 ●♯2 母もの”の歌を山ほど歌ってきたよ。8才から16才まで・・。 脚が毛深くなってもまだ歌っていたよ。 ”母もの”が出尽くしたら次は”父もの”だった。母のアイデアさ。でも、その1曲でその歌手の歌は卒業出来たよ。 もう子供でなくなりもっとモダンな歌を歌う様になった。 トンプソンと仕事したが、私達兄弟の転機になった。ケイとはロンドンで共演したんだ。 1度だけ歌い、いいステージだった。ケイの見事な芸から色々おそわったよ。 その後私達、兄弟は解散したんだ。兄の1人は歌手になり後にハリー・ジェームス楽団で歌った。 別の兄は俳優志望で結局エージェントになった。 もう1人はカルフォルニアで馬を育てているよ。 歌の能力しかなく、まだ続けているのはこの私だけだ。でも・・私なりの挑戦だったんだ。長い道のりだったよ。 最近・・ようやく仕事が楽しくなった。(51才) ●♯3 時代遅れにならない様にいつも意識してるんだ。ヒット曲の10位までは必ず聞く様にしてきた。 特にテレビ番組をやっていた時は・・ネ。 ヒット曲から流行を知る事は重要だった。 人気ある人達を番組に招いて一緒に歌たんだ。 彼等の曲を知っていれば、合わせやすいし流行に少しでもついていきたかった。 でも・・私はロック歌手にはなれない。ミック・ジャガーやデビット・ボウイにはなれないんだ。 やっぱり違う。でも・・現代的な曲でもバラードなら歌える。 そういう歌えそうだと思う曲を私なりに歌って録音もしてきたよ。 人の曲を私のスタイルで歌ってみたんだ。 編曲もヘンリー・マンシニーの頃よりは現代的にしたんだ。それでも・・基本は同じかもしれない。 時代と共に少しは変わって来たと思う。 ■マンシニーの話について・・・・・歌う様になったいきさつは・・・ あの曲は面白いエピソードがあるんだ。作曲家のマンシニーと作詞家のジョニー・マーサは私の友人なんだ。 偶然2人とあの時この曲の話をきいたんだ。書き上げたばかりだった。 アーチ・ブライヤーのレコード会社と話して歌手は私を推薦したと・・・。 ティファニーで朝食でという映画に使う為だったんだ。 ブライヤーはマンシニーたちを買ってはいたが”幼なじみ”なんて詞のある歌は感心しないと言う。 若者にも受けそうにもないと・・私はあきらめたんだ。 ところが・・・マンシニーの演奏だけのレコードは大ヒットしたんだ。 そして・・・J・バトラーという歌手の歌たものが100万枚のヒット・・。 私は、チャンスを逃したかっこうだったんだ。 ところが・・・・・・なんとこの曲をアカデミー授賞式で歌うことになってね。 世間では受賞候補の一つだった。 そこで・・・私は別のレコード会社(CBSコロンビア)で企画の話が有ったんだ。 ブライヤーとは話てから1年もしないうちに、全米で6000万人が見る、授賞式で私が歌た曲「ムーンリバー? と名を冠はにしたアルバムを作る事にしたんだ。 早速40万枚を作り店においたよ。絶対受賞すると思ったからなんだ。 結果は見事受賞して翌日レコードは売り切れたんだ。 母が電話してきたよ。「受賞おめでとう」・・と。私自身が受賞したと思っているんだ。 今まで3回あったんだ。 ムーンリバー 酒とバラの日々 パパは王様 3回とも母は電話してきたんだ。私がカデミ-賞を3回取ったと思っているんだ。 でも・・・・・そう・・信じてるなら・・いいさ・・。 次の曲はジニー・ウエッブが22才の時かきました。今ではスタンダードナンバーです。 大編成のオーケストラと歌手の為の曲です。「嘆きの歌」。 ●♯4 ■ケイ「・トンプソンから教わったといいましたが・・・歌についても・・・・? ああ・・それと・・スタイルだ。 ケイ・トンプソンは何事も洗練されたスタイルを持っていたんだ。 ロンドンでは、ケイ・トンプソンの友人のノエル・カワード」とも一緒に食事をしたよ。 彼は、私達をステージで見てくれた。ケイ・トンプソンは全てが一流で凡庸さはみじんもなかったんだ。 全て磨き上げられていたよ。ある時期彼女は映画会社で歌のコーチもしていたんだ。ジュリー・ガーランドのコーチもしたしジュディの映画の歌をかいたりも・・、とても刺激を受けたんだ。 ●♯5 ■ソロでレコードを出せたいきさつは・・・・・・・・・ ステージとテレビに出ていた時期にアーチ・ブライヤーがレコード会社を作った。彼はTVとラジオの人気番組の 音楽監督だったんだ。 ジュリアス・ラ・ローザという歌手のレコードを出す為に会社を作ったんだ。 他の歌手も売り出したんだ。エヴァリ・ブラザースやコリデッツ、無名歌手の曲も大ヒット。 私は羨ましかったしブライヤーの力に感心したんだ。 その彼にケイの紹介で歌を聞いてもらえて、レコードを出して見る事になったんだ。 数曲目でヒットが出たんだ。「カナダの夕陽」だ。 それで・・更にレコードを出したら、シングル10曲位続けてヒットしたんだ。 100万枚を超えるものはなかったが、それぞれ40〜90万枚だ。 実は・・・100万枚を超えたものも有るのだが、ゴールド・レコードとはみなされなかったんだ。 片面「もう離さない」もう片面は酒とバラの日々」のヒット曲のの組み合わせだ。歌が二つだから、ゴールド・レコードにはならなかったんだ。 ブライヤーとは沢山仕事をしたが、カルフォルニアに移る事になって、レコード会社を移籍したんだ。CBSコロンビア。そっちで活動を続けたんだ。 ●♯6 ■子供たち・・・・・・・・ 生のステージは好きだよ。 ラスベガスで歌てそう思う様になったんだ。 でも・・ツアーはやめたんだ。子供達と過ごす時間がほしかったからだ。 子供が大きくなってからも一緒にいたかったと思ってもおそいんだ。 私は、子供たちと余り一緒にいなかった。 だから・・ツアーを止めてその時間を作ったんだ。 子供達も音楽の才能が・・・・・? そうでもないとおもう。 特に才能がありそうな子はいないよ。皆ギターを弾いたりしていたが、止めてしまったんだ。 サッカーがいいとね。 もし歌手になるといいだしたら・・・賛成するよ。末の子が8才だ。私は8才の時には歌っていたけど・・ネ。 長男は13才で勉強が良くできる。歌より科学が好きな様だ。今の所は・ネ。 娘は14才だ。出来れば・・大学で学問をやってほしいんだ。 とても綺麗な子だから、モデルにでもなるかもしれない。 TVにでたり女優になったり・・ネ。 8才の息子の話に戻るとスポーツをやりそうだ・・ネ。 とても好きなんだ。上手いし・・ネ。 ●♯7 ■ロバート・ケネディ・・・・・ 今までの人生で特にわすれられない重要な出来事の一つは・・・・・ ロバート・ケネディの葬儀で歌った事だ。 その役を務めた理由は、私が彼の夫人の友人だったからだ。そして暗殺の瞬間をすぐそばにいたんだ。 遺体をニューヨークに運ぶ飛行機にも一緒に乗った。 夫人は私が葬儀で歌を歌うのを夫も願うはずだと言う・・。 葬儀を行う大聖堂にその話したら、歌う事には賛成してもらえたんだ。カトリックの歌をいくつか提案されたが ラテン語の知らない歌ばかりだったんだ。 私はカトリックでないから、彼等のミサは馴染みがないんだ。 翌日の葬儀までに覚えるなってとても無理だったんだ。 そこで・・・・代案を出してくれた人物がいたんだ。ロバート・ケネディの友人で護衛でもあったビル。バリーだ。 彼は、ロバートの選挙活動も手伝い車の中で休める様に気遣ったりしていたんだ。 そのビリーが、ロバートが好きだった歌を知っていると言う「リパブリック賛歌」だ。 ロバートはいつも周りの人達に歌を歌わせ最後が必ず「リパブリック賛歌」だったと言う・・・。 では・・それを歌ってと夫人が言ったんだ。 その夜、私は百貨辞典歌詞を調べて歌う部分を決めたんだ。そして・・・翌日葬儀で歌たんだ。 とても緊張していたし。胸がいっぱいで歌えないと思った程だ。 誰かが・・・私を席から立たせてくれたんだ。私が控えている間に、エドワード・ケネディ上院議員が弔辞を 述べ後ろでは司祭達が聖書を朗読した 私は、自分に言い聞かせた。「ショー同じさ」歌える。」 そうしなければ・・・・歌えなかったよ。 私は、本当に胸がいっぱいだった。ただ。。祭壇の陰で控えていたら・・まるで楽屋の様に次の説教の準備を してしていた。 だから・・私もこれはショーだ。歌えるぞと、思えたんだ。 いよいよ歌い始めたたんだ。 ロバートや彼の一族を思い出さない様にして・・・・ なんとか歌い続けたたんだ。 それでも・・こみ上げるものが・・場内の人々が私と一緒に静に歌い出したたんだ。 五番街からマディソン街では、スピーカーから歌が流れ、数千人が声を合わせた。私には聞こえた。胸が 打たれたよ。 ■曲目は紹介・・・・・ ●インタビユー♯1 ムーンリバー 涙色の微笑み ▲皆さん今晩は ロンドンのアルバトホールへようこそ。 今夜は特別ゲストと一緒に歌います。ロンドン交響楽団。 ラブ・ストーリー アイル・オンリー・ミス・ハ・ーホエン・アイ・シンク・オブ・ハー アイ・リメンバー・ユーあなたのことばかり イット・ヴァー・エンタード・マイ・マインド ラブ・ストーリー シェルブールの雨傘 悲しき慕情 ラブ・ストリー 愛さずいいられない ●インタビユー♯2 ユー Andyとジョージとの掛け合い風会話・・・・・・・ ▲こうして、ロンドン交響楽団と一緒にアルバート・ホールで歌えるのは 本当に幸せです。ここにある男性を紹介します。指揮はおてもので交響曲もお任せあれとい人物 ジョージ・ワイルドです。ジョージとながい付き合いです。彼はすごい才能があって、小指1本で指全部を 超えるすごい指揮をする。そうだ。・・ネ・来てくれて嬉しいよ。指揮するのにピアノの前に・・?オーケスト ラに休むからピアノをと言われたんだ。最後までピアノだけ・・・・・? 16小節まではと言っていた。 バーじゃなくて、パブかな・・。 笑えないよ。この歌を見てくれないか・・? いいよ。いい歌だね。素晴らしい歌だろう・・?君が書いた・・・?いいや きみのママ・・? まさか・何言ってる。そうかい。分かった君の秘書だ。違うよ ひどい冗談だ。 そうかな。ビリージョエルの曲だ。君の秘書の曲じゃないが、大好きさ。 素顔ままで ●インタビユー♯3 ▲次はジミーウエッブが22才の時に書来ました。 今ではスタンドアンバーです。 大編成のオーケストラと歌手の為の曲です。 嘆きの歌・マッカサー・パーク ●インタビユー♯4 ▲さあ、来た。 女の子二人も・・・。奥さんに連れられてしぶしぶ来た男性の方々は 私だけじゃ退屈でしょう。 彼女たちと同じ楽屋なら嬉しいな。 オズモンドブラザースよりは・・ネ。 命の洗濯した夜は・ダンスシーン ▲ライバルはジーン・ケリー どこかな ジーン見てくれた。 衣装を脱がせるのは意外に大変なんです。 リハーサルしないといけない。覚えて貰う為何回も何回も・・・・ すると・・間違えます。 今夜は楽しんで頂けましたでしょうか。 大好きな曲をもう1曲歌います あなたが行く時まで・別れの時まで 1部終わり 第2部 ▲シング・ザ・ソング・メロディ 歌の贈りもの ハッピー・ハート ▲次はマンシニーの曲です。 ディア・ハート ▲次は私の初めてのヒット曲です。 カナダの夕陽 ビルの居酒屋 サマー・タイム ハワイの結婚の歌 恋はリズムに乗せて 酒とバラの日々 シャレード 歌の贈り物・ラスト ●インタビユー♯5 イッソ・イージー もう離さない 遙かなる面影 君の瞳に恋してる ▲メロディ ダニー・ボーイ オール・モースト・ゼア 野生のエルザ(ボン・フリー) 心の奥底に(モア) ●インタビユー♯6 ハイヤー・アンド・ハイヤー ▲ウエスト・サイド・メロディー 名曲は沢山あり、ラジオやコンサートで耳にします。米国生まれのクラシック音楽もあり、その代表的 名曲がウエスト・サイド物語。バースタイン作曲、ソンドン・ハイム作詞。これはまさに、米国のクラシックの 傑作です。 マリア 何か起こりそう サム・ホエアー ●インタビユー♯7 リパブリック賛歌・・・・・・ ▲英国と米国は似ている点が多いですが、違うのは米国は大きな内戦を経験している事です。内戦、つ まり南北戦争は最も悲惨な戦争でした。 同胞が殺し合い国の存続も危ぶまれたのです。 南北戦争の大きな苦しみと混乱の中から米国の不滅な遺産となる、ある曲が生まれました。 アメリカの祈り〜 リパブリック賛歌 アメリカの祈り 見果てぬ夢 第2部終了・約1時間30分位かな・・・・。
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