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Andy Williams Biography
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2007年7月末にwowowのAndy特集放映の担当の方から電話頂き放映前の3分のMCの簡単なAndyのバイオをA4 ・1枚にまとめてとの依頼をされ、夏の忙しいシーズンでしたので、時間がなくて、夜中lの4時頃まで大急ぎでA4・7枚に書きとめたものです。まとまりが有りませんが・・・ 放映にはこれから抜粋して3分間にまとめて放映するそうです。 担当の方と何度か電話でこの放映されるテープの入手のいきさつ、貴重なテープと言う事を話されました。 ■Andy Williams Sings the Hits を放映されます。 Andy Williams Sings the Hits はDVDとして発売されています。 担当の方の話ですと・・・・ 昔はほとんどフィルムで保存されているそうです。 保存している専門の会社があって、それからビデオ・DVDに制作されるとか。 今回はマスターテープを流すので、音声も画像も綺麗だそうです。 昔のフィルムは相当貴重らしく、放映権も高いとか・・・・・。 1本のDVD制作に膨大なフィルムから色々なAndyの画像をミックスして制作される様です。 曲のテロップもきちんと入れると言っていました。 担当者はわかーーいカルロス・ジョビンとのデュオは貴重だそうです。 とりあえず・・放映前に原文のまま掲載しました。 2007/08/31記 |
Andy Williams Biography 佐々木 終吉(s.sasaki@reaale.com) ■1927年誕生・・・ 1927年12月3日にアイオワ州のウォール・レイクで生まれる。この小さな町には聖歌隊がなかったので聖歌隊・ウイリアムス・ファミリーが誕生した。4人兄弟と妹の5人兄妹。 メンバーは父母と3人の兄達と末っ子のAndyで、この時Andyは8才になったばかりだった。 やがてやがて一家は州都ディ・レインズに移住。ここでボブ・ディック・ドン・Andyのウイリアムスブラザース結成。 WHO放送局・WLS・WLW放送局に出演する。1家がカルフォルニアへ越してからMGM映画と契約する。 第2次大戦でグループを分断。Andyはロスの学校へ・・。 ■1946年トンプソンとの出会い・・・ 戦争が終わって1946年、4人兄弟と言うよりandyにとって運命の出会いを果たす。 ケイ・トンプソンである。踊り・歌い・曲も作る才女だった。アンディはエンタティナーの基礎を身につける。プロとしての基礎も・・・・。 彼女と組んで、ナイトクラブで人気を得る事に。 6年間アメリカ・ヨーロッパで公演しトップ・エンター・ティナーとしての不動の地位を得る事に。 Andyは後に語っている。 彼女から、エンターテイメントの全てを得る事ができ、後のTVショーでは随分彼女との一緒の6年間がプラスになったと語っている。Andyの芸人としての基礎を身に付けた時代といえる。 1953年浮き草生活にピリオドをつけてウイリアムスブラザースを解散する事に。 ■Andy23才でソロへ・・・・1952年 Andyは23才の若さでソロシンガーとしてスタートする。 翌年、Andy自身の歌の録音テープを持ちニューヨークの土地を踏み、当時人気番組だったスティーブ・アレンの「トゥナイト・ショー」出演を果たす。 最初の契約は2週間だった。しかし・・運命の女神はAndyにほほえみかけたのだった。 それは・・・なんとーーー長期契約だったからだ・・。 Andyは振り返って、スティーブとのショーの経験が素晴らしいかった。歌だけでなくダンサーからギャグまであらゆる事をやらされたと語っている。 ■1954年ケイデンスレコード・・・・ ケイデンスレコードと契約・・・ Andyは1954年ケイデンスレコード契約。 「カナダの夕陽」「ハワイの結婚の歌」「聖ベルナデッドの村」「ベイビードール」「バタ・フライ」のミリオンコードを放ちました。この「バタフライ」はAndyの1番売れた曲と後に答えている。 当時プレスリーが人気を博しAndyもプレリー風に腰を振って歌ったのだった。 1958年の夏当時有名な歌手・パット・ブーンとの比較論でAndyに軍配が上がり、益々人気が高まる。 AndyのTVショーについて・・・・・・・ ■
1959年TVショーのホストをつとめる。今回の番組はこの辺りのショーと思われる。 ■
ケイデンス時代の様です。 ■
このDVDの曲はCDにあるかは、分かりません・・。 ■
カルロスジョビンの確か5曲ともCDではない様におもいます。 ■
コロンビア名義のLPでジョビンの曲をAndyは沢山唄っていますネ。 ■
有名なイパネマの娘はCDでは出ていない様です。 ■ 1962年NBCでAndyショー・1年で終了。 ■ 1963年TVショー復帰を果たす。 ■ 1964年NBCで再びAndy始まる。 ■ 1967年TVショー終了する。 ■ 特別番組(クリスマスショー)のみ12年Andyファミリーが出演。 ■ 1969年NBCでAndyショー復帰。 ■ 1971年終了 ■ 7年間グラミーショーの司会をつとめる。 ■1966年1月(NHK)でも日曜日の午後1時から放映開始されました。 ■1967年初来日を果たす。(Andy40才) Andyのテーマ曲となった、マンシニーのティファニーで朝食をの「ムーンリヴァー」はヒットしLPもヒットした。 この辺りからAndyは日本ではメジャーになり、1年毎にCBSコロンビアからニューアルバムが出ている。 ■ 1970年来日公演(Andy43才) ■ 1973年来日公演(Andy50才) ■ 日本でのAndyの人気のピークは・・・ 1971年LP「ラブストーリー」 1972年LP「ゴットファーザ」辺りの頃。初来日の1967年頃から3回目の1973年辺りが日本でのピークの様に思われます。この頃のAndyのLPは日本では日本コロンビアからCBSソニー名義発売になています。来日記念盤とか日本独自のベスト盤・ミックス盤とかが数多く発売されていました。 アメリカでのアンディは38才辺りから人気がでてAndyも人生で1番充実した日々を送っていたと思われます。 1961年CBSコロンビアに迎えられた辺りからAndy一般的になったようです。 アルバムも沢山でて売り上げもゴールドディスクがでています。 ムーン・リヴァーと言えばアンディと言われる位ウオームヴォイスの温かな人柄と優しさ素晴らしい。 なんと言ってもアンディの歌が最高に思える。 歌詞の内容を優しく視聴者に伝える心を持ち、全ての人に心癒してくれり、素晴らしい歌唱力を持ち当時1960代にの声とまで言われた由縁でもあります。 ■
1960年夏NBCTVはAndyショーを放映する。 1年に2作の割でスペシャルショー出演する。 ■
1962年からアンディ・ウイリアムスショーレギュラーに。 ■
この辺りからAndyのアットホームな司会人柄が人気に・・。 1961年、AndyはCBSコロンビアに移籍。 「ダニー・ボーイ」「ムーン・リヴァー」「酒とバラの日々」「君住む街」のシングル・ヒットをだす。 LPも17枚のゴールドディスクアルバムを放つ。 ■
1.1963年「Days Of Wine And Roses 」 ■ 2.1963年「Days
Of Wine And Roses 」 ■ 3.1964年「The Academy Award Winning Call Me
Irresponsible」 ■ 4.1963年「Christmas Album 」 ■ 5.1964年「The Wonderful World Of Andy Williams 」 ■ 6.1965年「Dear Heart」 ■
7.1964年「The Great Songs From My Fair Lady And Other Broadway
Hits」 ■
8.1966年「The Shadow Of Your Smile 」 ■
9.1967年「 Born Free 」 ■ 10・「Love, Andy 」 1967年 ■ 11・「Honey 」 1968年(日本では初のCBSソニー名義のアルバム・この年からCBSソニー名義になり発売がすタート) 当時銀座のソニービルでこの「Honey」のAndyの赤いジャケットLPが大々的に売り出されていました。日本でもTVショーが放映(1966年度)アルバムも人気も出始めソニーもAndyに相当力を入れていた様です・・。 ■12・「Merry Christmas」 ■ 13・「Happy Heart 」 1969年 ■ 14・「Greatest Hit’s」 ■ 15・「Get Together With Andy Williams」 1969年 ■ 16・「Love Story」 1971年 ■17・「Love Theme from 'The
Godfather' 」 1972年 ■ 1961年(Andy34才)、12月15日、劇的な出会いを果たしたクローディヌと結婚。2男1女をもうける。 Andyはこのころ、ビバリー・ヒルズで幸せを絵に書いた様な生活を送っている。Andy38才頃辺りが1番充実した日々を送っていた。 Andyの人気も不動の物となり充実した日々を送っていた時期でもあります。 映画にも出演「彼女は億万長者」ロバート・グレー、サンドラ・ディ共演。 フランク・シナトラの後継者とも言われていた時期の1960年代でもある。 バラードシンガーとして、ハンサムで演技も出来るシンガーとしてソフトで・スイートで歌詞を良く理解して、味わいにある中に清潔な印象と家族を大切にし、Andyの歌声は心に染み入る魅力を持ち、万人に優しく語りかけるウォームヴォイスで、魅了してくれます。 誠実な人柄、美しい歌心、優れた曲の解釈力、人を押しのけてと言う事もなし、スターらしくない大スターのAndy。 1969年クローディヌと結婚解消。 1971年TVショー終了。 アルバムはCBS名義最後「愛有る限り」が最後。 その後何枚かは他のレーベルから発売されていた。 レコード会社もロンビアとも契約解消。 日本ではAndyは忘れられた存在で、彼のニュースも聞こえなくなっていた時期だった。 1968年親友のロバート・ケネディが暗殺・Andyが葬儀で悲しみの中で「パブリック賛歌」を歌う。 1976年、別れたローディヌの過失事件に遭遇しAndyはスコミに追われる日々。 離婚しても彼女の弁護をするなど、この時期のAndyは大変だったよう・・・。 この頃のAndyは後に語っている。(1980年代のAndy) この1970年後半から1980年代のアンディは1番つらい時期のようでもあったらしい・。 Andyの情報が日本に余りはいらなかった。 ■1977年コロンビアから解雇される・ 出口のない暗闇を彷徨っていた。何をしていいか分からなかった。随分人生において迷いの時期の様だったと・・・・。自分の進むべき道が分からず迷っていた時代だった、。 そして失意の日々が過ぎて、やがて明るい光のあたる出口へとAndyは歩み出す事になる。 1990年Debbieと再婚。Andy63才。 Andy「ブランソンに行って劇場を建てるまで、目標がなかったがやっとやりたい事が見えたんだ。自分の劇場を建設し、そして、そこで働きたいと」 Andy「劇場に僕を投影したかった。TVやレコードで築き上げたものを・・・ね。僕は期待したものは全くの違った種類の劇場で質の高いものを・・・・・」 Andyは全財産を投じて、劇場を建てる事に・・・ ■ そして喉頭炎に・・・・克服する Andyの声帯にしこりを見つけた。彼は絶望を経験する。 Andy「とても馬鹿な事をした。喉頭炎だった。でも・・・2000人も来ているのに僕が出ない訳にいかないだろう・・。遠くから来ているのに・・・。それで・・喉頭炎なのに歌ったんだ。歌と喉に負担がかかった。ショーの最中に喉を痛めたと気付いた。 Andy「3ヶ月後、しこりは半分ほどに・・まだ休めと言われ僕は仕事をさらにキャンセルしたんだ。8ヶ月待つとしこりが完全にきえたんだ。その後異常はなかったんだ。ただ。1年も使っていないので鍛える必要が有った。」 ■そしてAndy復活す・・。 ■全治するとイギリスへ向かった。復活した人気を楽しんだ。 Danny「だれでも歌は歌える様になる。でも歌を・・・自分のものにして、聴く人の心を動かせるのは才能ある人間だけだ・・。アンディがそうなんだ・・・」 Robert Wagner「彼は何度ムーンリバーを歌ったと思う。今まで一体何度あの曲を披露した事か・・。それでも・・・いつも初めての様に歌う。偉大な歌手のの見本だ・・・」 彼にとって、人生で最高のポップ歌手の1人だ・・。」 Andyたまーあに・・考えるのは「引退」なんてしたくないと・・。僕が幸せで歌も上手く歌えている内はね・・。 ■彼はどう記憶されるべきか・ Andy「難しいね。どう記憶されたいか。レコードやTVをやった人間はラッキーだよ、人々に記憶され、何度も見られ、聴かれ続ける・・・。 Andy「僕が記憶に残してほしいのは僕の音楽なんだ・・・」 ●アンディは60年以上も厳しい業界の中でその要求に合わせ、自分を変えて生き残ってきた。 Andyはムーンリヴァーシアターで大成功を納める・。 2006年に元気に(78才)来日を果たし素晴らしい声量を聞かせてくれた。イギリスツアーも元気で行っていてシアターでもクリスマスジーズンで公演を行っている。 新しいCD「 DONT REMEMBER EVER GROWING UP 」2006年発売。 現在Andyは79才。元気です。- ■
1967年ツアー(初来日)・1970年ツアー・1973年ツアー・1982年ツアー・2004年ツアー 2006年ツアー(最後のツアーと言われています。この時Andy78才の高齢。 けどさすが・・・声量も公演もさすがプロ。素晴らしい感動ものでした。 あるファンは、感動で涙が止まらなかったと言っていました。 客層はAndy世代がほとんどで若いファンも来られていました。 ■
Andy初のライブ発売は1973年・・・ 1973年ツアーでAndy初の2枚組ライブを発売された。 Andyが完全主義者と言われ一発勝負のライブ盤は当時アメリカでも発売されていませんでした。 それがこの来日公演でデモテープを公演ごAndyにおくり聞いて一発でOKが出た言われたいます。 この公演がAndyにいとって、満足のいくツアーだった様におもいます。 このライブでも五木の子守・ラブストーリー・ゴットファーザなども日本語で歌い親日家として アッピールしています。さすがサービス精神旺盛のAndyでした。公演では着物もきていました。 結構Andyは外国語でも歌っています。 この「五木の子守」は当時コロビア在籍の美空ひばりのレコードで練習したと言われています。・ ■
味の元のCMでも有名になりました。 ■
マイ・ファミリー・あ・じ・の・も・と‥♪のフレーズのCMソングでAndyでの日本でのお茶の間の人気も高かったようです ■
■アンディがポピュラーになった訳とは・・・ ■
日本語・・・・ ■ Andyはエコーが多用論がファンの間で話題に・・・・ Andyのレコードにはエコーが多いと言われています。 ■Andyの答えは・・・ Andyの声がそれを必要としている。 エコーは、個人の好みの問題である。個人的には自分のレコードに少しエコ―を使うのがすきです。 これは、声に肉ずけを与えます。レコーディングではエコーは使わず、後で加えるられる。 ニューヨークの30番街スタジオでレコーディングする方が好きである。 Andyのアルバムで「ボーンフリー」がもっとも自然な音だとAndyは言っている。 Andyは言っています。 ボクは兄弟で歌って来たから、ゲストとのデュオは上手く出来る。 ソロ活動でお金なくて犬の食事を食べた事もあるんだ。 苦しい時代を生きて来たから、ゲストへの優しい心遣いが出来るのでは・・。 ■
また、映像内で歌っている曲が収録されているアルバムがあったらそれも教えてください。 このDVDの曲はCBSコロンビア名義に限っては、歌っていない様です。 DVDのAndyの画像はケイデンス時代の1959年辺りではないでしょうか・・? Andyの髪型、やせ形の風貌などから・・・。 簡単なAndyのデーター。
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2007/08/01・ワードでA4・7枚を送りました・原文のまま。
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